工場内に安全換気のポスターやラベルなど、見える形で色々表示されているものを目にします。ESCO内では起こり得ないといった事象でも、数千人規模の集団の場合、低い可能性でも周知徹底させなければならない事情は分かるのですが、私から見ると過剰に見えたりします。個人で経験できる範囲は小さく、自分にとって常識と思えることでも、それが常識として会得されていない人の存在は想像しないといけないのだと思います。
評:何か事故があった場合、誰かが責任を取らねばならず、工場などでは教育・指示が行われていたという「カタチ」がないといけないというのが根本にあると思います。あわせて、「誰もが一瞥して分かり、行動を適切に変容させられる」表示というのは案外難しいです。また、こういったことは常識の植え付け(教育)とセットで行わなければならないというのも重要です。規模に応じたやらなければならないことも変わるのでしょう。KTさんに4点(合計4点)
面白い問題を見つけました。人間と妖怪の関わり方にの変遷についての論説ですが、得体の知らない元の出会ったとき、人は、注意喚起のために外部に発信する、打ち倒す、共存しようとする、など様々な対応が考えられ、時代と共にそれが遷り変ってきているという事です。今のネットの世の中では、得体のしれないものが無くなってきている様に思えるのですが、そういったモノへの向き合い方がこれから大切になってくるのではと思えました。
評:人間はなんでもわかる、支配できる。と中途半端な勘違いをしている様に思います。コロナなど良い例で、分かっていることもそれなりにある中、感染リスクを社会としてどのように考え、対処すればよいのか?全体最適のための道筋やコンセンサスが得られているとはとても言えません。そういった中で、個人として、そして社会の一員として書してゆけば良いのか?悩ましいことは多いですね?ONさんに3点(合計5点)